模倣する社会
『模倣するほうが楽かもしれない。でもそんなことをしても世界はよくならない。』
スティーブ・ジョブズの言葉だ。
しかし、世界は模倣。まがい物で溢れているようにも感じられる。
確かに、芸術において模倣するのは必要なことだろうし、模倣なくして、芸術作品を創造するのは不可能と言わざるを得ない。
それと同じように、発想だってそうなのだろう。無から有を生み出すのはとても難しいことだ。
難しいことはやりたくない。
それにリスクも多い。
仮に、ものすごい物を生み出せたとしても、売れない可能性がある上に、そもそも、どれだけ時間をかけても生み出せないかもしれない。
しかし、お金は無限にあるわけでもなく、誰かが援助してくれるかもわからないと来た。
だれも利益にならないことには、関わりたくない。
時間の無駄だからだ。
新しいことに挑めるのはお金か時間、あと少しの自由があるものだけだ。いや、ほんのすこしの勇気でもいいかもしれない。
だが、ほとんどの者が、そのいずれも持っていないと勝手に自己暗示にかかっている。
お金がないから……時間がないから……大人になって夢ばかり見ていらない……
一体、どれほどの人が、自分にそんな枷をつけて人生を終えていくことだろう。
そんな枷を背負った人の誰が、テレビに映る自称発明家をバカに出来るというのだろう。自称発明家の勇気をバカにして、成功した時にはその技術を模倣する。
そんなことに何の意味があるのだろう?
世界を変えるイノベーションとは、誰かが発明しなければ生まれない。
Apple社のApple ⅡもiPod、iPhoneも全てイノベーションと言えるだろうし、SONYのWALKMANだって紛うことなきイノベーションだ。
それらの技術を模倣した会社は一体どれほどあったことだろう。数えきれない程あるだろう。
産業革命だってそうだ。イギリスから生まれた蒸気機関は瞬く間に世界に広がり、その後、電気、原子力と全てが模倣されていく。
イノベーションによって世界が変わっていく。
しかし、世界を変えるのはイノベーションだけではない。模倣がなければ世界は変わらないし、誰も革新の凄さがわからないし、技術の値段はいつまでも高いままだ。
凄かろうが、誰も手を出せない技術には何ら意味はない。
だからこそ、模倣も革新もどちらも重要なのだ。
かといって、模倣だけしていても、世界は良くならない。
たとえ、イノベーションしようとして、努力が実らなかったとしても、やったという実感は積み重なる。
常に世界を変える意識を持つことが、これからの時代を生き抜く力となるだろう。